戦時下、激化する空襲と食糧不足のなかで、 肢体不自由児は、視覚障害児は、聴覚障害児は、 そしてその家族や教育者たちは、 どのような生活を強いられ、生き抜いたか 強壮な兵士になることだけが 子どもたちに望まれた時代の 障害児たちの貴重な生活記録! 編集復刻版『障害児 学童疎開資料集』 全4巻 戦争の激化に伴い、地上戦が予測される地域や空襲の対象になる都会から学齢児童を「避難」させる「学童疎開」は、一九四四年から本格化する。 兵士の供出とともに家族を引き裂く学童疎開は、次世代の兵士である子どもを生き延びさせる「戦闘配備」と称され、同時に空襲対策の「防空活動」に足手まといになる幼少年を強制的に退去させるものであった。 東京、大阪など都市部の学童たちの集団疎開や縁故疎開が進むなか、しかし、肢体不自由児や視覚障害児、聴覚障害児の疎開は「国の役に立たない者を助ける必要はない」と最後の最後まで後回しにされ、疎開後、戦争が終わったのちも、もっとも遅い帰郷となった。 疎開先から発せられた肢体不自由児学校・東京都光明国民学校の「通信」には、卒業生から兵役に就くものが出た際に、自分たちの学校から皇国の兵士が現れたと喜ぶ声が載り、また故郷の家族を心配させまいと元気にふるまう子どもたちの様子が描かれる。 学童疎開とはなんだったのか。障害のある子どもは戦争の時代をどう生きたのか。 子どもたちの手記を中心に、学校の教務日誌・通信など貴重資料を収集し、復刻する。 松本昌介・飯塚希世・竹下忠彦・中村尚子・細渕富夫=編 ●揃定価――8万円+税 ●配本――全2回配本 ●序文――逸見勝亮 ●推薦――大門正克 菊地澄子 藤井克徳 六花出版 刊行にあたって 戦時中、障害児やその親御さんたちはどんな思いで過ごしたのだろうか。 米軍による空襲が激しくなって、幼い子どもたちは家族で農村部に、あるいは学校単位で集団疎開した。しかし、手がかかり、戦力として期待できない障害児は疎開計画にも入れられず、都会に取り残された。 肢体不自由児の学ぶ都立光明国民学校は、取り残されて、世田谷の校舎に寝泊まりし、校庭に防空壕を 掘って空襲の時は教員が子どもを抱えて逃げた。 空襲が激しくなり、ここも安全ではないと校長が疎開地を探し、1945年5月、長野県上山田温泉に疎開した。東京の校舎は焼け、帰れないまま4年間不自由な生活を強いられた。 東京に残った家族も家を焼かれることもあった。その親元に毎月わら半紙の手紙が届いた。「学寮通信」と名付けられた一枚の手紙に親はどれだけ安心しただろうか。この通信は校舎が再建されて東京に復帰するまで4年間発行され続けた。 盲学校、聾学校もそれに近い不自由な生活を送った。教職員も疎開受け入れ側も障害児を守るために努力した。 障害児と教職員、家族と受け入れ施設それぞれの努力を記録しておきたい、そんな思いでこの資料集は作られた。 学校統廃合の中で貴重な戦中戦後の記録は失われ、疎開経験の障害者は高齢化していく。 この仕事は今やらねばならない、そういう願いを込めて障害児の疎開体験、戦中戦後の学校教育の資料を求めてわれわれは長年動き回った。 ふたたび障害児が戦争によって当たり前の学び、生活することが奪われてはならない、そういう思いを込めてこのシリーズを作った。 編者代表 松本昌介 ●年表――添付エクセル 推薦文 史料から浮かんでくる肢体不自由児たちの戦時・戦後 大門正克(横浜国立大学教授) 2005年ころ、松本昌介さんのご自宅を訪ね、『仰光通信』や『学寮通信』『クラスの友』など、光明学校の疎開中や戦後の史料を拝見させていただいた。2000年に、農村と都市の子どもを対象にした『民衆の教育経験』(青木書店)を発刊した私は、その後、植民地の子どもや在日朝鮮人の子ども、肢体不自由児などに視野をひろげ、戦時下の統合についてさらに深く検討する必要性を痛感していた。肢体不自由な子どもたちは戦時下と戦後をどう生きたのか、松本さんのお宅で拝見する史料のなかに、私は子どもたちの足跡を追った。 今でも印象深く覚えていることは、独力で実施した光明学校の学童集団疎開は大きな困難をかかえたが、国民学校の学童集団疎開時における子どもの日記には戦意高揚の文章が多くみられたのとくらべると、光明学校の子どもの集団疎開時の日記にはそのような言葉がほとんどなく、冷静な記録という印象があったことである。私はそこに、光明学校は東京で「生活科」や「適性」の時間などにより、将来の自立をめざす教育を進めており、そのことが戦時下の子どもの意識に反映したのではないかと考え、「子どもたちの戦争、子どもたちの戦後」(『岩波講座アジア・太平洋戦争』第6巻、岩波書店、2006年)をまとめた。 本資料集からは、学童疎開時における肢体不自由な子どもたちの生活や意識を鮮明に知ることができるとともに、戦争が子どもたちをどう統合したのか(しなかったのか)を考えることができる。ぜひ推薦したい。「障害ある子どもと戦争」の歴史を刻むために 菊地澄子(児童文学作家) 『障害児 学童疎開資料集』が復刻された。ここには、光明学校の学童たちが疎開先から親元へ毎月送り続けた「学寮通信」という疎開生活の記録、「仰光通信」という卒業生向けの通信がはいっている。疎開中に卒業して東京へ帰った中学生たちは、焼け跡に集まって「学校通信」を発行し、文集も作っていた。戦後の物資不足のなか紙や謄写版インク等も乏しく、大変だったろうに。 都立光明特別支援学校は、一九三二(昭和七)年に日本で初めて開設した肢体不自由児学校である。戦争が激しくなり、国は将来の兵士育成を考え、一九四四年、国民学校(現小学校)三年〜六年生の学童疎開を決定し、都会の学校には急いで学童疎開をさせたが、光明学校までは手が回らないと突っ撥ねた。光明学校では校庭に防空壕を掘り、校内宿泊させて児童を守りながら、自力で必死に疎開先探しに奔走。そして一九四五年五月にやっと、学童五九名と教職員たちは、長野県の上山田ホテルに疎開できたのである。そしてその直後、東京の光明学校は空襲に遭い、大半が焼失してしまった。この三カ月後、日本は戦争に敗けた。 翌年の三月、学童疎開は解消されたが、光明学校の児童たちは帰る学校がないのだ。敗戦後も四年間、上山田で疎開生活を余儀なくされた。 日本で一番遅く学童疎開をし、一番長期間疎開生活をした肢体不自由児たちの、戦争末期から戦後へかけてのこの体験記録は、日本の歴史の真実を語る貴重な役割を果たすものと信じてやまない。 障害児と教師の戦時下からのことづけ 藤井克徳(NPO法人日本障害者協議会代表) 遠い過去からずしりとした「ことづけ」が届いた。七〇年も八〇年も沈黙しながらよくぞ辿り着いたものだ。「ことづけ」が放つメッセージは、古くささを感じさせない。むしろ、今だからこそ心に染みる。崩れかけたわら半紙にしたためられた文字は、もはや文字の域を超えている。これを言霊と呼ばずして何と言うのだろう。 そんな言霊の詰まった、戦争と障害者の生活を重ねた「証言集」が蘇った。過酷な環境の中で必死に記録を綴ってくれた教師たち、「ごくつぶし」呼ばわり時代の胸中を書き遺してくれた障害当事者たち、戦中・戦後の混乱期から現在まで資料原本を守り続けてくれた人たち、復刻の書にこぎ着けてくれた関係者……、これらの人々の間に必然性があったとは思えない。 偶然も重なっての見事なまでの群像合作という他ない。一つ共通点があるとすれば、それは「残す」へのこだわりであろう。「残す」の営みは、今「未来への回想」として新たな価値を発揮してくれようとしている。一人でも多くの人に触れてほしい。とくに、戦争と障害のある人の関係を知りたい人、そして歴史から平和を学びたい人に。耳を澄ますと聴こえてきそうだ。疎開地からの障害児童と教師の声が。 編集復刻版『障害児 学童疎開資料集』 全4巻 松本昌介・飯塚希世・竹下忠彦・中村尚子・細渕富夫=編 刊行概要 ●編――松本昌介(元都立肢体不自由養護学校教員)     飯塚希世(大学図書館勤務)     竹下忠彦(都立特別支援学校教員)     中村尚子(立正大学准教授)     細渕富夫(埼玉大学教授) ●解説――松本昌介(第1巻所収)・飯塚希世(第3巻所収) 体裁 ●B5判 上製 総約1,600ページ ●揃定価――8万円+税 ●序文――逸見勝亮(第1巻巻頭所収) ●推薦――大門正克(横浜国立大学教授)      菊地澄子(児童文学作家)      藤井克徳(NPO法人日本障害者協議会代表) 第1回配本 2017年5月刊 本体40,000円+税 ISBN978-4-86617-028-2 第1巻 光明学校T(巻頭に序文=逸見勝亮、解説=松本昌介) 第2巻 光明学校U(巻末に機関誌類の総目次) 第2回配本 2017年11月刊 本体40,000円+税 ISBN978-4-86617-031-2 第3巻 日誌ほか/回想・研究T(巻頭に解説=飯塚希世) 第4巻 回想・研究U *表示価格はすべて税別 六花出版 〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-28 電話03-3293-8787 Fax03-3293-8788